ノックス兄様の密命メシ【サン・サレンのラッツィーガ】

※この作品はファンメイドであり、料理名や世界情勢などは多分に個人の想像による解釈を含みます。その旨、どうぞご了承願います。

 

 

 任務を終えて見上げるサン・サレンの領主館は、先ほどまでの吹雪で白粉をはたかれたようになっていた。幸いにも退出の頃には雪は止んでおり、今は青空が覗いている。雪の反射が眩しかった。ロング・ナリクより来訪した青年近衛騎士ノックスが眉間に皺をよせて館を眺める姿は、傍から見れば威嚇しているようにも思えただろう。だが彼が考えている事はただひとつ。
(……腹が、減った)

 

 ロング・ナリクの外交使節向けに用意された館に帰ると、誰も入れるなと下男に申し付けてノックスは部屋に引き篭もった。聖槍士軍属にして近衛騎士という身分を示す純白のマントを脱ぎ、その下の礼服も脱ぐ。代わりに荷物袋の奥に密かに突っ込んであった、よれよれのチュニックを頭から被る。使い古された毛皮のマントを羽織れば、くたびれた労働者の出来上がりだ。父から譲り受けたマントは少なくとも三十年もので、それもサン・サレンで見繕ったものだというから、現地に溶け込む役に立つ。
 部屋は二階だ。窓を静かに開け、誰も見ていないのを確認してから、猫のような柔らかさでノックスは雪の積もった庭に飛び降りる。そのまま裏口からそっと抜け出した。
目指すは、そう、美味しいご飯のあるところ。大富豪リエンス家の長男であるノックスは美食に慣れている。だが本当に彼が愛しているのは庶民の味だ。

 

 肩を丸めて夕暮れの人並みに紛れていく。サン・サレンの目抜通りは石材の運搬車両が通り過ぎた直後で、祭りの余韻にも似た、高揚した空気が漂っていた。ノックスは北方の訛りに耳を浸しながら黙々と歩く。仕事柄あまり顔見知りを増やしたくも無いので、食事処は毎回変えている。さて今日も良い店に当たると良いが……。
(揚げパンも美味そうだが、どちらかといえばもう少し重いものがいい。だったら市場の食堂街に行くか? だがそれでは少々、冒険が足りない)
 路地裏に目を走らせたノックスは、ドワーフの一団がどやどやと賑やかに笑いながら店へ入っていく後ろ姿に目を留めた。石材の運搬を終えた、仕事帰りのドワーフ達であろう。その頑健な背中は何かしらノックスの胃袋に訴えるものがあった。
(よし、ここにしよう)

 

 するりと道を逸れてドワーフを吸い込んだ店の前に立つ。看板は控え目だ。トナカイの絵が描かれている。あまり上手とは言えない字で添えられた屋号は<角鹿亭>。何を出すのかはわからない。そもそも真っ当な食事処なのかもわからない。そこから賭けだ。しかし楽しいじゃないかとノックスは思う。年季の入った木の扉を押し開けると、たちまち店内に充満したお喋りに包み込まれた。いくつかのグループに分かれたドワーフの鉱夫集団が主の客層のようだったが、人間の親子連れや、北限に住む少数民族も座っている。場違いすぎることもなさそうだ。

 混み合った店内で席を探していると、ドワーフと目が合う。にかり、と白い歯を剥いて笑ったドワーフに手招きされた。恐らくはもう酒が入っている。頑固者の地底小人が他種族と陽気にやろうというのだから。ノックスがドワーフの間に尻を滑り込ませると、
「この店は初めてか」
手招きしたドワーフが聞いた。
「初めてです」
「それはいい」
早速、給仕の少女が飛んで来る。ノックスが答える間も無く、ひとりぶん追加だとドワーフが指を立てた。
「どっから来た」
「トーンの海沿いの方」

 ノックスは流れるように嘘をつく。ある時はカラメールの冒険者と名乗り、またある時はポロメイアから出稼ぎに来たと説明し、さらに別の時は東の国から辿り着いた移民と言ったこともある。それらは「ロング・ナリクの騎士」という明るい月の周りに転々と散らばる星のようなものだった。どれだけ嘘を重ねても、真の月はいつも煌々と彼を照らしてくれる。
「ということは魚食いか。なら驚くぞ、この店の名物にはな」
そうしてドワーフはノックスの背中を愛情を込めて叩き、ノックスは軽く咳き込んだ。

 すぐに料理が運ばれてくる。
「トナカイのブラッドソーセージに、マッシュポテト、コケモモのジャム。それから一杯のエール。鉱山上がりの空腹を相手取るに、このひと皿に勝るものなし!」
周囲のドワーフたちはエールのジョッキを机に打ち付けて賛意を示す。
「さあ食え若者。人生の上手くいかないことは、一旦忘れておくことだ」
 ノックスは暗褐色のソーセージに歯を立てた。ぷつりと皮が破れた瞬間に、ノックスの胃には肉汁と共にトナカイが立っていた。思っていたより臭みは無いが、血を食べていると思えば生々しさが増す。命そのものを凝縮した鮮烈な味がする。私を食べるのはお前か、と胃の中のトナカイがいなないている。そうだ、僕が食べる。お前をいただく。とても美味しく。二口目、春を待つトナカイがじっとこちらを見ている気がする。マッシュポテトは大地の味、コケモモはトナカイが命を繋ぐ恵みの味だ。トナカイの世界を胃の中に収めている。僕はこのトナカイと一昼夜共に過ごすらしいぞ、とノックスは思った。良い事だ。これで僕はサン・サレンの一部になった。

「美味しいだろう?」
ノックスは答える。
「とても。何という料理なんです」
「ラッツィーガ」
語源はサン・サレンの地方部族の言語かもしれない。不思議な名前を舌の上で転がすと、それはやがて胃の中のトナカイの名前として定着した。ラッツィーガよ、僕はお前を忘れまいよ。ノックスは語りかけた。トナカイは澄んだ目で彼を見返す。こうやって命は繋がっていくのだ。
「さあエールも飲め。おかわりもある。儂の奢りだ、若者はたんと食え」
また背中を叩かれる。凝りに凝った背筋に心地好い。

 今回の任務は、サン・サレンの領有する幾つかの山に、ロング・ナリクの騎士を鍛錬の為に送り込む、その許可を取りに来ていた。領主からはこってりと嫌味を言われたが、背に腹はかえられない。ロング・ナリクにも山はあるが隣国ドラッツェンとの国境線そのものであり、山岳地帯での戦闘訓練をするにはリスクが高すぎた。従って他国の山を借りるしかないのである。それも表立って使者を送る事は出来ず──ドラッツェンと戦うためにサン・サレンの山脈を借ります、などと公式発表したら新たな戦争が勃発するに決まっているので、ノックスのように単独行動を苦にしない騎士身分が隠密に書類を携えて訪問するのが常道なのだった。そして迂遠な悪口でなじられた後、意味不明な対価を求められる。返信を持って帰れば今度はロング・ナリクで頭ごなしに叱責されるのであろう。何とも損な仕事ではあった。
 その苦労を胃の中のトナカイが青草と一緒にむしゃむしゃ咀嚼している。けろりとした顔で。トナカイにしてみれば人間の葛藤など爪の先程の意味も無かろう。僕もそう思うことにしようとノックスは決め、だがサン・サレンの領主を頭からむしゃむしゃ齧る訳にはいかないからな、などとしょうもないことを想像すると少し元気が出た。
ノックスは質素なカトラリーを置いて、礼儀正しく頭をさげる。
「ご馳走様でした」

 

 今日も騎士ノックス・オ・リエンスは密命を帯びて暗い旅路を独り行く。

 されどそこに美食のある限り、彼は己を癒す術を知っている。

 

[完]