たとえ愚かでも、その足跡が続くなら(2)

 

5、

 

 ブラークは目指す場所の位置を正確に把握しているらしい。迷いのない歩調で市場をさらに奥へと進んでいく。

 入口から遠ざかるにつれ道は細くなり、店構えは少々みすぼらしくなり、品物は日常生活から掛け離れた分野のものへと色合いを変えた。いくつかは冒険者向けの道具屋や、秘術につかう材料を扱う魔女の店であったりする。

 メロウは恐怖を忘れて夢中になった。

「あっ、ねえブラーク、すごく立派な毛皮のマント」

「──ああ」

「寄り道しても?」

「喜んで」

 テント状のその店には様々な獣の毛皮が展示されていた。メロウの目を引いたのは、熊に似た獣の毛皮である。毛足が長く、頭や手足の皮まで余さず綺麗に剥がれていた。

 メロウの知らない生き物だから、きっとスウォードヘイル山脈にはいないのだろう。

 防寒着として向くかどうかは何とも言えなかった。が、ブラークがずっとここにいる訳では無いのだ、という事に思い至って、メロウの胸にじんわりと鈍痛が広がる。いつかは別れて、それぞれの道へ進まなくてはならない。もしかしたらそれは明日かもしれない。

「お目が高い」

と商人が揉み手しながら出てきた。

「これは珍しい獣ですからね。サン・サレンで扱ってるのはうちの店だけですよ。お兄さんもどうですか、似合うと思うんですがね。試着はタダですし、採寸もすぐに終わりますから」

「それは是非」

とブラークが言った。そんなに乗り気だとは考えていなかったので、メロウの方が意表を突かれてしまう。売り言葉に買い言葉で「検討する」と言っただけだと思っていた。

「そんなに?」

「良い毛皮だよ。店主殿にも教わりたい事がある」

 ブラークはにっこり笑うと、毛皮屋の手の中に金貨を落とす。

 あんぐりと口を開けた店主とブラークが店の奥へ入っている間、メロウは近くの店からの出前で届いた(店主がどうやって注文したのか分からなかったが、何かしらの合図があるのだろう)スパイスたっぷりのミルクティーをちびちび舐めながら店先に座って待った。分厚い毛皮は吸音材として働き、メロウの良い耳にもふたりが何を話しているのかは聞こえない。諦めて怪しげな商店街を眺めていると、一頭分の毛皮を両手に抱えたブラークが出てきた。あまり時間はかからなかったものの、その後ろに控えている商店主はあからさまに怯えている。

「何を、してたの?」

 メロウが二人の男に代わる代わる目をやって問うと、ブラークは微笑んで、

「その話はここでは出来ない性質のものでね、申し訳ないが秘密にすることをお許しいただきたい」

と馬鹿丁寧に答えた。その目が笑っていなかったので、メロウは肩をすくめただけで、それ以上追求しない事にする。

 厄介事に首を突っ込んで喜ぶのは愚か者であると、母から耳にタコが出来るほど言い聞かされていたからだ。とはいえそれも、メロウが厄介事に首を突っ込みやすく、厄介事を生産しやすい性質だと良く知っていたからかもしれないと、今になって思い至る。

「さあレディ、せめて日が暮れる前に」

とブラークは促した。

 メロウはお茶の例を言って、不思議な獣の毛皮とブラークの腕の間に手を滑り込ませる。そこにはブラークにしか分からない熱が篭っているようだった。

 

6、

 

 市場の端に出ると、そこはサン・サレンの領主館の辺りとはまったく趣が異なっていた。まず家が石造りではない。かと言って丸太を組み上げた丈夫な家でもない。メロウの目から見ても貧相な板張りの家だ。これでは真冬の寒さが凌げないであろう。しかもやや傾いている。屋根に積もった雪の重みで骨折しそうなのだ。それが何軒も並んでいる。

「エルフの家」

メロウに耳に口を寄せて、ブラークは囁いた。

「ここはまだ裕福な家庭だろう」

「嘘でしょ」

 足を止めた二人組を剣呑な目でじろりと見て、背の曲がった老婆が追い越していく。 

 あの人もエルフだとメロウは気づいた。

 咄嗟に声を掛けようとして躊躇う。老婆が、食堂で会ったあの恐ろしいエルフと似たり寄ったりの眼差しをしていたからだ。

「街門の内側に住むエルフは優遇されている方だ。後からやってきた難民は街門の外側で悲惨な生活をしていると聞く。申し訳ないがレディ、せめて門の内側までにしていただきたい。外側は余所者が気軽に踏み込んではいけない場所だ。私の腕だけでは君を護れない」

 メロウは小さく頷いた。だが門の前までは行かなければならない。いつまでも世間知らずでいたくなかった。

 ブラークに迷惑をかける事について、またもう一度悔しさを感じる。私が護られる存在でなければ良いのに、と。

 メロウが足を前に出すと、それだけで首筋にひやりと張り付く悪意を感じた。ブラークの腕の中からそっと手を引き抜く。すぐに動けるようにしなくてはならないという切迫した思いがある。

「メロウ殿」

「門までは遠いの?」

「さほどは」

 メロウは歯を食いしばって歩いていた。

 市場から遠ざかるにつれ、確かに家の造りの粗雑さが増していく。割れた板切れの壁で囲まれた家は空き家なのだろうと思っていたら、中からひとの声が聞こえて驚いたりもした。後ろからつけてくる足音もする。山で獲物を追いかけていたメロウには、尾行していることを隠しもしないのに驚いた。

「あそこだ」

 我慢できず後ろを振り向こうとしたメロウの肩を軽く叩いて、ブラークが注意を促す。

 それが門であるとは、メロウには一目見ただけでは理解できなかった。じっと観察して、家の合間に確かに門があることが分かる。もともと石造りの小街門であったところに、雨後のキノコよろしく家が付着しているのだ。

 その異様な家々は、メロウの心を決定的に折った。自分の常識と明らかにかけ離れているものを同族が造って良しとした、その感性は母の在り様とは天と地ほども違う。

「わかったね」

 ブラークが言い、メロウが同意のため彼を見上げようとしたその時、視界の何かがメロウに警報を発した。それは狩人の目だから認識できたものであっただろう。

「首!」

 メロウが叫ぶのと、ブラークの首に猟師が罠に使う細糸が絡みつくのはほとんど同時だった。

 驚いた顔のままブラークの体が糸に吊られて浮き、殺生鳥のように高速で宙を舞って頭から家に激突し、その穴だらけの板を突き破って内側へ転がっていくまでの行程は、ほんの一瞬のうちに終わる。悲鳴は無かった。首が締まったからだ。そうやって母娘で狩りをしたことがあるから、メロウは良く知っている。

 腰のベルトに下げていたナイフを抜いて極細の糸を切った。ブラークが剣を佩いて来たのを真似して良かったと思うが、間に合ったかどうかは定かではない。獣と同じように首が締まっていれば、速やかに死が訪れている。

「出て来なさい」

 メロウは糸の出所を目で追いつつナイフを構えた。設置型の罠に似せてあるが、ピンポイントで首を狙えたのは人が操っているから。

「そのナイフで俺を刺せると思っているか?」

 じゃり、と路地に転がった得体のしれない瓦礫を踏んで、男が出てきた。背に大剣を負っているが、抜こうともしていない。メロウが突きかかってきたところで脅威になるはずが無いという確信によるものだろう。

 それはメロウ自身がいちばん知っていた。何より、男の顔を知っていたから。

「領主の前でブラークに負けたやつ」

「その、双子の弟だ」

男は無精ひげの生えた顎をさすって言った。

「兄貴の首を折った野郎には、当然の報いだろ」

「ぜんぜん当然じゃない」

「そうかい。じゃあ好きにしな」

 最後の一言はメロウに向けたものではなかった。

 うなじに生温かい息がかかり、ぞわりと鳥肌が立つ。弾かれたように振り向き、反射的にナイフを振ろうとしたが、それよりも速くみぞおちに拳が入っていた。

 メロウがその場面で最後に覚えているのは、エルフの顔。食堂で会ったエルフの男の、底なしの闇のような目。

 

7、

 

 どれだけ意識を失っていたのか、ブラークには分からなかった。辺りは暗い。鼻先でネズミが走っていったので目はまだ見えることが分かった。確か、首を折られかけたはずだ。

「メロウ殿」

 名を呼んだが、そこにいるはずもない。何という失態だろう。騎士たるものが油断をした。護らねばならない相手を窮地に追いやるなどと!

 起き上がろうとしたが、その動きで首が締まった。うつぶせの状態に戻って首元を引っ掻き、信じられないほど細い糸を探り当てる。

 見事に仕上げられた糸から相手の正体は分かった。怪物狩猟者、危険生物を相手に渡り合うことを生業とする者。闘技の最後に挑んできた男も同業だろう。

 糸を外して立ち上がった。手足を縛られていないところからすると、怪物狩猟者はこちらを仕留めたと確信して捨て置いたのだろう。

 手先から、先ほど買ったばかりの毛皮の端が千切れて落ちる。メロウの警告で瞬時に首元へ滑り込ませた。故郷で触り慣れた毛並みは指に馴染み、その獣に守られたことに驚きもする。毛皮がなければ、確実に息の根が止まっていた。

 因果なものだとブラークは思う。この毛皮はブラークの故郷ロング・ナリクからの密輸品だった。ブラークの生家リエンス家はこの毛皮の「主」を保護する役も担っている。問い詰められた店主があの怪物狩猟者を雇ったという線は大いにありそうだ。

 しかし今はメロウのことを考えなくては。

 手は動く。指先の感覚は正常だ。足も折れていない。思考は清澄。

「待つんだね」

 暗がりから投げられた女の声に、大股で部屋を横切ろうとしたブラークは足を止めた。気配が感じられないことに戸惑う。手練れだ。

「どなたか」

 明かりが灯った。と言っても、小さなろうそくの明かりに過ぎない。だがそのかそけき光に照らされた顔にブラークは息を飲んだ。

「御母堂様(ごぼどうさま)か」

 ふふ、と女性が笑うと、その表情も声もメロウによく似ている。

「そんなに丁寧に呼ばれるのは初めてだよ。だが外れだ。御母堂様ではない」

「では」

「縁者だと思えばいいさ。そこに意味は無いんだから」

「あるだろう。少なくともメロウ殿には」

 ブラークは拳を握った。

「メロウ殿は無事なのか」

 女性の顔に浮かんだのは笑みだったのかどうか。返答に少し間が開く。

「無事だよ、今のところはね。だが——、待ちなさい」

 寸時の間も惜しんでブラークは飛び出していきたかった。

「お前が独り吶喊(とっかん)したところで、あの子の元には辿り着けないよ。能無し共が増やした家とはいえ、ここのエルフにとっちゃあ森だ。森の中でエルフ相手に探し物が出来ると思っているかい」

「成すだけだ」

 女性がろうそくに息を吹きかける。真なる闇の中、ブラークは愛剣を抜き放って予想外の方向から降ってきた斬撃を受けた。

「ふうん」

 右から左から上から下から、あらゆる方向から刃が襲ってくる。そこに殺気は無く、無いからこそ読めないはずなのだが、ブラークは見事にいなし続けた。

 自分を真夜中のかずら森の中に放置した父親のことも、今この瞬間に限定するなら有難く思える。あとは闇に紛れて私刑に処そうとした諸先輩方による荒っぽい叱咤激励についても。

「戯れはおやめいただきたい!」

「まあ、合格としておくか」

 言葉を発するという隙に捻じ込まれた刃が、ブラークの首元で光っていた。

「筋がいいのは分かったよ。とはいえ、まだまだだ」

「そんなことは良く知っている」

 息が上がっている。領主館での戯れより、よほど厳しい立ち合いだった。あの十九人が束になったところで、一撃も受けることなくこのエルフは喉を掻き切ってしまうだろう。

 メロウは、母メヴが戦士であったと言っていた。もしこのエルフと同僚なのであれば、その技量のほどは推して知るべし。

「お前は何故メロウを構おうとする」

「困っていたから。貴女の仲間であるところの御母堂の後を追って、みすみす死にに行こうとしたからだ」

「それで?」

「それだけだ」

イカレてる。理想論を吐いて倒れるのが好きな系統だな」

「私には、貴女のような技量を持った人がこの苦境を座して見ている方が、イカレていると思われるのだが」

 鋭い平手がブラークの頬を打った。

「お前には分からない」

 ブラークは口中に溢れた血を飲み下して言う。

「分かったら恐ろしいだろう」

 乾いた笑いが部屋の中を跳ね回った。こんなことをしている余裕はない、とブラークは思う。刻一刻とメロウを救える機会が失われていくのだ。

「あの子は当分、死なないよ。あれらも五体満足なメヴの娘を切り刻むほどの阿呆ではない」

「何処かに監禁されるというわけだ」

「そういうわけだ、麗しの騎士様。もしも娘に何かあってメヴが本気で報復に出た場合はサン・サレンごとぶっ壊すよ、あの女はね。イカレてるからさ。だから愚連隊どもに出来ることといえば、何処かの物好きに売り払うってことだね。値段はつくかな。半分エルフ、半分人間の山育ちの娘、ああ顔だけは良さそうな騎士様、もう手を出したりした?」

 ブラークは女性の声がする方向に思い切り剣を叩きつけた。脆い家の木壁が砕け散って穴が開き、月明かりが射しこむ。風に乗って、憐れむような笑いがブラークの周りで渦を巻いた。

「明日の夕に人買いが来る。そこが刻限だ」

「まて、名をお伺いしていない。私はブラーク・オ・リエンス。貴女は……」

「自分の名と私の名とでつり合いが取れるとでも? 傲慢な人間だね、大嫌いだ」

 それだけ言うと、ただでさえ微かだった襲撃者の気配はまったくの無になり、ブラークはがっくりと肩を落とした。

 何と情けない騎士であろうか。それもこれも自分の咎(とが)だと思った。ブラークが誰も挑発することなく、もっと賢く動くことが出来たなら、メロウが危険に晒されることはなかったはずなのだから。

 重い体を引きずり路地に出ると、何処かから飛んできた生卵が後頭部で炸裂する。ブラークは振り返ることもせず、敗北感を噛みしめて難民区画を後にした。

 

8、

 

 翌朝、ブラークは領主館のベッドとは別の寝床で目を覚ます。冒険者向けの〈剣竜亭〉に一晩だけ宿を取った。

 前面では額が割れて顔が血まみれ、背面には生卵が垂れていたが、エルフの難民区画へ行っていたという説明だけで部屋を借りられたのは有難いことである。騎士の鎧を着用していなかったのが幸いしたのか、あるいは真夜中に〈剣竜亭〉に駆け込む冒険者としては良くある状態なのかもしれない。

 寝る前に気力を振り絞って頭は洗ったが、目覚めてみれば全身が生臭くて閉口した。法外な追加料金を払って湯あみをさせてもらい、毛皮を預け、たっぷりと朝食を取る。冷静になる必要があった。

 〈剣竜亭〉のホールは朝早くから夜遅くまで冒険者たちが詰めており、賑わいの絶えることがない。孤独も使命のうちである遍歴の騎士には、その賑やかさが好ましく、またまばゆく思われた。

 少し様子を見てから、ひとりの冒険者に目をとめて話しかける。

「御仁。教えていただきたいことがあるのだが、よろしいだろうか」

 相手に選んだのはドワーフの男だ。ブラークのことを頭のてっぺんから爪先まで疑い深そうな目で検分し、自身の前に置かれたジョッキを無言で指さした。ブラークは手を上げて給仕を呼ぶと、

「同じものを二杯」

と言う。

「人間が何の用だ」

 雄牛が唸るようなその語勢を、ブラークは美しく感じた。

「昨日、市場の食堂で騒ぎが起こったのはご存知だろう」

「いいや」

「ご存知のはずだ。あなたは私の目の前にいたのだから」

「くどい」

「ならば単刀直入に伺おう。あのエルフは何者だ」

「お前に答える義理は無い」

 どすん、と音を立ててジョッキが置かれた。

 驚いたことにジョッキを運んできたのはコビットの女性で、両手に抱えて来たジョッキは彼女の身長の半分くらいはあっただろう。それを頭よりも高々と掲げてテーブルの上に置くものだから、どうにも危なっかしい。

ドムドム、困らせちゃだめだよ」

「誰がドムドムだ! わしゃドムリだぞ」

ドムドムでもムリムリでも何でもいいじゃんか。お兄さんは何を聞きたいの?」

「かたじけない、レディ。この街のエルフの話を」

 ひゅうとコビットは口笛を吹き、ブラークの横の椅子によじ登った。

「ドムちん聞いた? 今時レディだってさ。れ・い・でぃ!」

「こいつは騎士だ」

「そうなの?」

「恥ずかしながら」

 コビットの女性は何ひとつ断りを入れず、ブラークの麦酒を両手で抱えて飲んだ。もう酔っているのかもしれない。

「あれはケルヴァンという」

毒気を抜かれた様子で、溜息まじりにドムリが言った。

「ハルトの犬だ。領主が後ろ指をさせば、あのろくでなしが背後から刺す。さもなくばエルフの巣に連れ帰る」

そこでドワーフの目がぎらりと光る。

「娘がさらわれたのか」

「人買いの手に渡される前に救いたい」

「悪いが手助けは出来んぞ」

「ああ、独りで行く。私の責任だから。有難う」

 席を立とうとしたブラークを、ドムリが押しとどめた。コビットの方は相変わらずジョッキと仲良くしている。

「ひとつ情報をくれてやる。人身売買が行われるのは難民区画の広場だ。腐れエルフは隠れもせんと商品を展示して売りさばいとるそうだがな、ただ買われた奴の行方は、そこから分からんくなる。あの腐れた家の中を通って何処かへ隠れるからだ。少なくとも広場は門塔の上から見えると聞いた」

ブラークは頭を下げた。

「気を付けろ」

 

 

「ドムっち」

立ち去る騎士の細い背中を酒の肴に、コビットが言った。

「助けなくていいの?」

「うむ」

ドワーフが唸った。

「注意力散漫だよ、かなーり」

コビットは酒を飲み干すと、卓の上にジョッキをひっくり返した。そこから金貨がじゃらじゃらと音を立てて積み上がったので、ギムリは仰天してしまったのである。

「お前これは何だ」

「今の今、あの立派な騎士からスったの」

「返さんか!」

いきり立つギムリの前で、コビットは指を振って見せた。

「あなたスられましたよって? コビットが巾着に近づいても気付かなかったでしょって言うわけ? あたしならもっと有意義な使い方をするね。つまり、あたしら二人分の契約金に」

ドワーフは唸って、腕を組む。気難しげな顔はしかし、輝いている。

「苦難に立ち向かい打ち砕くのがドワーフの性だってなら、今でしょ。少しだけ恩を売っとくのも悪くないし。あれ、出世するよ。生きてれば」

 

9、

 

 焦れるような時間が過ぎる。

 昼過ぎにブラークは〈剣竜亭〉を発って、市場へ向かった。毛皮は〈剣竜亭〉に預けてある。また吹っ掛けられたが仕方ない。冒険者では無いと、お喋りなコビットの口からあっという間に知れ渡ったのだ。

 頭の中ではいくつかの作戦を練っていたが、いずれも最終的には「なるようにしかならない」運任せのものである。

 こんな時は至上の善なるセルウェー神の教会に参じたいものだが、生憎サン・サレンの教会は街の反対側だ。どうか見放されませんように、と胸中で祈りをささげるしかない。

 ブラークは屋台で揚げパンを買おうとして金貨を詰めた巾着に手を伸ばし、血の気が引いた。巾着は見事に切り裂かれており、十数枚詰めておいた金貨のうちで残っていたのは端に引っかかっていた一枚だけ。それでも残っていたのを幸運とすべきだろうか。

 よほど顔が青ざめていたのか、

「お兄さんどうしたの」

と揚げパン屋に心配される始末だった。

「いいや、問題ない」

 最後の金貨を揚げパン屋の、労働で分厚くなった手のひらに乗せる。

 救出のために考えていた策の九割方がこれで潰えた。この端金では冒険者が買い揃えるような品質の高い道具類は揃えられない。かと言って領主館へ取りに戻る訳にもいかなかった。あのエルフが領主ラドス・フォン・ハルトの後暗い部分を支えているのであれば、みすみす傷を増やしに行くようなものだ。

 ならばあとは身一つで何とかするしかあるまい。途方もない試みであった。

 しかしブラークの身体には、反骨心から湧き上がる熱がふつふつと巡り出している。怖いなどと思ってやるか、と騎士は普段に似合わぬやや乱暴な言葉を胸の内で呟いた。

 

 ブラークは昨日と道を変え、市場を横断する。端にたどり着くと迷うことなく街門の横に併設された塔へ進んで行った。

 入口はこの手の塔としても高いところに開いており、梯子が無ければ中へは入れそうにない。ブラークが朗々たる声で呼ばわると、寝ぼけ眼の塔番が顔を覗かせた。

「そちらに上がらせていただきたい!」

 よほど不用心なのか、それとも半ば打ち捨てられているのか。

 このように唐突な訪問であったにも関わらず、ブラークは誰何されることもなく、塔番は梯子代わりの縄を垂らして寄越した。

 登れまいとたかを括っていたのやもしれない。確かに見上げるほどの高さであるし、塔番が気まぐれに綱を揺らせば落ちて骨を折るだろう。

 しかし腹を括ったブラークにとっては何のこともない運動だった。ロング・ナリクで受けた地獄もかくやという鍛錬に比べれば、児戯にも等しい。小さな入口から、息も切らさず素早く塔に乗り込んだ。

「ご厚遇痛み入る」

 するすると縄を巻き上げながらブラークが言うと、塔番はやや恐れを抱いたようだった。腰の大剣にも目が行ったようである。

「私は何もあなたに害をなさんとしている訳でも、あなたの職務を汚そうとしている訳でもない。ただこの上からエルフの家々を見たいだけなのです。お許しいただけるだろうか。あなたが叱責を受けるようなことは、決して致しませんから」

 そうブラークが穏やかな声で礼儀正しく言うと、塔番はやや落ち着きを取り戻し、屋上への階段に続く扉の鍵を放って寄越した。ブラークは丁寧に宮廷風のお辞儀をする。 

 そして決然と扉を開いて階段を踏み上がり、風の吹きすさぶ屋上の、物見のための空間へ進んだのであった。

 そこから見下ろすエルフの難民が住む家々の姿は、荒涼として侘しい。白い雪を被った屋根の下には、無謀に建て増したせいで歪んだ家々が肩を寄せ合い、支え合うように並んでいる。

 復讐を企てる誇り高き女闘士メヴ・ディレンの潜伏先としてはこれ以上の場所はないだろう。しかし、ブラークは彼女はここにはいないであろうと踏んでいた。メヴがいるならば、メロウをさらう行為は不自然だ。話したいことがあれば娘と接触すればいい。加えて、わざわざ名無しのエルフ女がブラークに警告を発する必要もなかろう。

(ならば)

ブラークの胸の内側で、心の蔵が暴れ馬のように跳ねている。

(ならば、メロウ殿の味方は誰一人いないということになるまいか)

 名無しのエルフ女の態度は敵とは言えなかったが、味方であるとも過信は出来ない。ブラークは刺すような風の中、手袋の中で指を一本ずつ動かしていった。闘争の気配に手が震えないように。