※この作品はファンメイドであり、料理名や世界情勢などは多分に個人の想像による解釈を含みます。その旨、どうぞご了承願います。
◇
「ベーブルが食べたい」
天蓋付のベッドに少々だらしなく腰掛けた主君、コーデリア王女が言った。王族の威厳というものは宮殿の何処かへ脱ぎ捨ててきたらしい。クッションを抱きしめ、顔を埋めて、もごもごと続ける。
「私はリエンスのべーブル、熊さんのべーブルを所望する。蜂蜜がかかった熱々のやつを」
それに対し近衛騎士ノックス・オ・リエンスはただ一言、
「そうですか」
と返した。そして床に放り出された薄桃色のハイヒールを揃えて主君の足元に置く。爪先が靴より濃い桃色に染まっているのが見えた。詰め物を変えた方が良いのだろう。そもそもこの新しい靴は、コーデリア王女の身体的なバランスを考えるとヒールが高過ぎるように思う。デザイナーに見解を聞いた方が良さそうだ。それに何よりドレスと折り合っていない。やはりこれはリエンス家の総力を挙げてトータルコーディネートをすべきである。父様に上申しよう。以上、所見終わり。
「では退勤します」
「待て待て待て待てサー・ノックス」
「何ですか」
「主君への敬意が足らんと思わんか」
「敬意に足る御命令だったと?」
シルク生地のクッションがノックスの顔面を目掛けて飛んで来た。無論避けられるが、そのまま当てられることにする。
「良いコントロールです。では退勤します」
「しない!」
ノックスはクッションを投げ返す。コーデリアが受け取った隙に部屋から出てやろうと思ったが、裸足で駆けてきた彼女に腕を取られて阻止される。
「なあ、私は疲れているのだノックス。あのジャルベッタの物真似芸人みたいなドラッツェンの使者に、日の出の刻から始終笑顔で対応してみろ。空が青くなる頃には牛一頭くらい平気で食べられそうなくらい疲れるのだぞ。少しくらい甘いものを要求しても許されて然るべきだとは思わんか」
「トリに頼めば良いでしょう」
「あれは忙しい」
「僕も相当忙しいです」
「主命だぞ」
「他の近衛をお使いください」
「嫌だ」
「わがまま」
コーデリア王女はノックスの腕を振り回しながら言った。
「他の者では、恥ずかしいから嫌だ」
結局そこでノックスは折れる。身分の差は天地ほどもあれ、二歳下の王女は妹のようなものだ。頼られれば無下にはできない。それがノックス・オ・リエンスという男の気性である。
勝利を収めたコーデリア王女は一転晴れやかな笑顔になり、ノックスの眉間をぐりぐり人差し指で揉みながら、
「今日も皺が深い!」
と言った。
「どなたが深くしたと?」
「ロング・ナリク第一王女にして王位継承者である、このコーデリアであろうな!」
「御自覚がおありで何よりです」
◇
王女の私室を出るなり、ノックスは控えていた従者を呼び寄せた。まだ体の線が細く、リエンスの紋章が入った空色のチュニックを着ていなければ、見習い騎士とは信じられないだろう。ノックスとしては獣の扱いが上手いので重宝している。
「グリフォンに装具を」
ラドリド大陸の他地域でも例のある事だが、ロング・ナリクでもグリフォンを軍事用に訓練していた。これは頭が鷲、胴体が獅子という生き物で、極めつきの肉食獣でありながら人馴れし、鞍の装着を許すという、戦闘向きの性質を持ち合わせている。
「充分に休息を取っているもののうち、最も速度を出せるのを選べ。リエンス領と往復するからな。厩番であろうと隊長であろうと、これを見せれば話は通じる。難渋するなら僕に言え。叩き潰す」
近衛騎士の地位を示すブローチを従者に手渡すと見習い騎士はうっとりとした目で金色の翼を模した細工物を眺め、それからノックスが待っているのに気づいて、弾かれたように駆け出した。
(最速で往復したとして──)
ノックスは近衛騎士に割り当てられた荷物棚から、防寒着とグリフォン用の拍車を取り出した。鎧は無し。着る時間が惜しい。
コーデリア王女は未明から始まったドラッツェンの使者との謁見を終えたところだ。朝食後は昼頃までセルウェー教会のミサに出席、続いてアフタヌーンティー・パーティにて貴族諸家の令嬢らと共に使者をもてなし、仕上げに晩餐会、と今日の公務は密に詰まっていた。音を上げたくなる気持ちは、分からなくもない。
(──昼過ぎに戻れるだろうか)
リエンス領は王宮とかずら森の間に位置し、馬を早駆けさせれば半日ほどの距離だ。遮る物のない空を行くグリフォンは、馬よりさらに速度を出せる。であれば計算上、午後のパーティに届けることが可能であろう。問題はひとつ。
(求められるまでもなく、熱々の状態で提供せねばならない。リエンス領のべーブルは焼きたてこそが最も美味。冷えたべーブルでは我が家の沽券に関わるのだ!)
しかしどれだけグリフォンが速いと言っても、空輸する間に冷えるのは避けられない。このような無理難題を解決する方策はあるものか。
◇
馬場に引き出されたグリフォンは、何ともふてぶてしい面構えをしてノックスを出迎えた。装具は受け入れたようだが、引いている従者の動きにぎこちなさが感じられる。グリフォンがふざけて、その拍子に体の何処かを打ったのだろう。王宮で仕込まれたグリフォンは人間との信頼関係を結んでいるが、個体差は如何ともし難い。舐められれば人間より遥かに重量のあるグリフォンに易々と主導権を奪われてしまうものだ。
「ここ一週間ほど、誰も……その、飛ばせていないそうです」
手綱を握った見習い騎士が、振り回されそうになりながら不安げに言う。指示を聞かないため誰からも敬遠されているのだと。
ノックスが近づくと、赤茶色の羽をしたグリフォンは騎手を試すように頭を下げる。遠巻きにした飛翔騎士達から嘲りの眼差しが注がれているのが分かった。お飾りの近衛騎士などに乗りこなせるものか、という。
そこでノックスが怖がりもせず嘴の周りを掻いてやると、グリフォンは喉元を震わせて驚きと恭順の声を小さく発した。
「きっと速いのだな、お前は他の誰よりも。その誇りを僕は尊重する」
鞍の上に跨り、腰のハーネスを付ける間もグリフォンは落ち着きなく動き続けていたが、決して振り落とすためではない。
恐らくは世話をする隊士の質が良くないのだ。どう振舞ったら良いのかグリフォンが戸惑っている。飛翔騎士隊に育成の見直しを申し入れる必要があるのだろう。また仕事が増えた。
「ノックス様」
「主命は必ず果たすと王女殿下に伝えろ」
拍車を入れる必要もなく、グリフォンは勇んで南へ向け飛び立った。
◇
べーブルとは、ロング・ナリクで愛される甘味である。鉄の型に小麦粉と砂糖と卵で作った生地を流し込み、両面を挟んでふっかりと焼いたものだ。中にジャムを詰めたり、変わったものではベーコンを入れたりもする。ベーブルの語源は「聖書」を表す古い言葉で、これは型を閉じる様子が聖書をパタンと閉じる動きに通じるからだという。
最もロング・ナリクらしい個性が出るのは味よりもむしろ型の方だろう。元々はセルウェー教の祭りで聖なる太陽を象って真ん丸く焼かれて供される菓子だったのだ。しかしある時、目端の利くべーブル屋が聖具職人に頼み込んで天使の姿を模した型を作らせ、それが物珍しさも相まって売れに売れたことから、たちまち個性的な形のべーブルが世に溢れることとなったのである。
宗教や騎士文化の熟したロング・ナリクの美意識とも相性が良かったのだろう。今や鍛治職人見習いの昇格試験はべーブル型の製作で行うと相場が決まっている。どのモチーフを選ぶのかでセンスが問われ、上下挟み込んで焼くための蝶番は正確な作業を行う技術が問われる。優秀なべーブル型職人を集めた大会も開かれるほどだ。
そしてロング・ナリクを牛耳る貴族や教会権力もまた、べーブルに目をつけている。この菓子は製法が単純であり、また元になった菓子が「聖なるもの」であったがために、大っぴらに販売促進をしやすい。特色のあるべーブルを売り出せば所領も潤う。それでいつしかロング・ナリクの各地方で名物べーブルが乱立することになった。言うなればべーブル戦国時代である。
もちろん商魂逞しいリエンス家もべーブル商戦に参戦していた。リエンス家の所領が誇る名物べーブルは、熊さんべーブルと呼ばれる。かずら森に住む熊の仲間トブケールの姿を型に写し取ったためだ。トブケールはリエンス家にとっては栄達の契機をくれた恩ある生き物であり、紋章の中にもその姿が収められている。
熊さんべーブルの特色は生地にかずら森の蜂蜜を加えることと、そして焼き立てのべーブルの上に更に蜂蜜を追いがけすることだ。つまり熱々でなければ魅力を十全に引き出せない。その事実は常にリエンスの菓子職人を悩ませてきた。
そして今はノックスをも。
◇
同日──。
太陽がネメディ平原の方角に傾き始め、大聖堂の尖塔に微かなオレンジ色が加わった頃。薔薇が咲き誇る王宮の庭園では、コーデリア王女を挟んでロング・ナリクのご令嬢の一団と、隣国ドラッツェンより使者として派遣された貴婦人とが、水面下に緊張をはらみつつも和やかに歓談をしていた。
ドラッツェンから参じた貴婦人は女王ジャルベッタの親類であり、その血筋に相応しいシンプルな黒のドレスに真っ赤なルビーを配するアグレッシブな着こなしで場を威圧している。もしも黒い鱗のウォー・ドレイクが女性に化けたらこの様になるだろうと、コーデリア王女は秘かに脳内の人物録に書き付けた。実際そういう妖物かもしれない、とも。
対するロング・ナリクの令嬢軍団は、コーデリアの目には如何にも瑞々しくかつ貫禄不足に感じられた。加勢せねばと王女は思う。今のところ当方が勝っているのは人数くらいなのだ。
黒い貴婦人が交渉に来たのは、ロング・ナリクとドラッツェン間の民間人の通行について、制限を厳しくした方が良いのではないかという件である。もちろん彼女が単身で乗り込んできた訳では無いが、一団の中で最も高位なのは彼女であったから、丁重にもてなす必要があった。コーデリアはまた難癖付けに来たなと内心で舌を出しているが、本物の舌は厳重に隠しておかなければならない。
「……この間は曲者がテホに入りましてね」
そこで貴婦人は余韻を持たせて紅茶に口をつけ、沈黙に耐えきれなくなった令嬢が、
「テホって何かしら?」
と言ったのを聞きつけて艶やかな笑顔を浮かべた。コーデリアは皿を投げそうになったが辛うじて堪える。今の発言は最悪だった。相手国の地理が一欠片も頭に入っていないとは!
いつこのガーデン・パーティを切り上げるべきか、コーデリアは計算し始めた。ご令嬢に箔をつけたい親達の機嫌を取るため開かれた会でもあるのだが、外交上の陥穽をせっせと掘られては困る。次回からは少数精鋭にしなければ駄目だ。
「コーデリア王女様、御顔色が悪うございませんか? 日焼けなさったのかしら」
黒い貴婦人がさも心配そうに顔を覗き込む。また余計な返事をご令嬢軍団がさえずるのでは無いかとコーデリアが恐ろしく思い、速やかに返事をしようとしたとき、遠くから羽ばたきの音が聞こえた。鳥などではない。もっと大きなものの。
「あっ、あそこにグリフォンが!」
ご令嬢のひとりが空の一角を指さした。
「近づいてきます! 王女様、あのっ、お逃げになられた方がよろしいのではないでしょうか」
コーデリアは微笑む。この娘は勇敢で見込みがありそうだ。
「いいえ、大丈夫。よく見なさい」
赤い矢のように力強く空を切り裂いて、グリフォンは真っ直ぐ庭園に向かって飛んで来る。その背に騎手が乗っていた。防寒着と背負っている何かのせいでむくむくした輪郭に見えるが、それが誰だかコーデリアには分かる。飛翔騎士隊から苦情がタレ込まれたからだ。しかしあれもまた常識外れな事をする。面白い奴だ。きゃあきゃあ悲鳴を上げるご令嬢たちを王女は、
「騒いではなりません!」
と一喝する。黒い貴婦人は呆気に取られて硬直していた。
赤茶色の羽を広げたグリフォンは庭園の上空を一度ゆったり旋回した後、速度を落として降下。綿毛のように優雅にアフタヌーンティー・パーティ会場に着地する。鞍に括り付けられた金具が、参上を告げる鐘の役を果たしてガランと鳴った。
「サー・ノックス!」
コーデリア王女が呼ばわると、ハーネスを外して庭に飛び降りた騎手は滑らかに片膝をつく。
「誠に良いところに来た。流石は我が近衛騎士だ」
それは心からの台詞であった。
「ご紹介致しましょう。こちらがサー・ノックス、ノックス・オ・リエンス」
そしてナリクの悪魔――と、きっと黒い貴婦人は心中で付け加えた事だろう。ノックスは戦場に出る度、表情ひとつ動かさず、淡々と剣を振るって、いつの間にか大将首を取ってくる。それは最早魔術的な手際の良さであって、ためにドラッツェン側からは悪魔呼ばわりされて忌み嫌われている。対してロング・ナリクの近衛騎士団からは忠犬と呼ばれて、少々敬遠されている。本人はどこ吹く風といった顔をするばかりだ。
「失礼ながら」
黒い貴婦人は口元をハンカチで押さえ、震えた声で言った。
「少し恐ろしく思いますわ、未来の女王陛下。何をなさるおつもりですか。騎士に芸でも仕込んでらっしゃいますの?」
ノックスは顔を上げ、
「僕は多芸ですので、そのつもりでいますよ。しかし観客席を整える必要があるようだ」
立ち上がるなりその腕を掴む。黒い貴婦人が悲鳴を上げた。
「離しなさい! これは、これは、ドラッツェンへの宣戦布告になりますよ!」
取り合わずノックスが軽く捻ると、黒いドレスの手首あたりから、小刀がこぼれ落ちて机に突き刺さる。
「刃物を持ち込むのはいけませんよ、レディ。重大なマナー違反です。残念ながら芸の続きは別の場所でお見せすることになりそうですね」
わななく貴婦人を衛兵が引きずって行くと、庭園には静けさが落ちた。残っているのはコーデリア王女とノックスのふたりきり。ご令嬢軍団は蜘蛛の子を散らすように逃げ出してしまっている。いや、グリフォンも頭数に数えなくてはならないか。人間たちの喜劇に飽きたグリフォンが獅子の足で器用に鷲の頭を搔くと、鞍から下がった金属がガラガラとけたたましく音を立てた。
「して、べーブルは?」
「その前に警護体制の見直しをしてください。誰があの女の身体検査をしたのか。それからコーデリア様、今少し自覚的に御警戒を──」
「べーブルが先」
ふん、と無作法に鼻を鳴らして、コーデリア王女は机に肘をつく。
「命を狙われたあとの心の平静を取り戻すためにも、私はべーブルを食べなくてはならない。ならないったら、ならない!」
ノックスは先行きを懸念しつつ、防寒着を丁寧に脱いで畳み、グリフォンから荷を降ろした。そのまま厩舎に帰そうとしたのだが、グリフォンは庭園に寝そべって拒否の姿勢を示す。仕方なく庭番を呼びつけて金貨を握らせ、飛翔騎士隊に戻すのが遅れる旨を伝言した。
「火を興してもよろしいですか」
「庭園に引火しなければ何処でも別に。その前にノックス、何を始めるつもりなのだ?」
「御主命を果たすところですが」
「んん?」
「我がリエンス領のべーブルを御所望だったのでしょう」
「まさか……」
「ここで焼きます」
「お前が!?」
「蜂蜜のかかった熱々のやつをと申されたのはコーデリア様でしょう。急な御要望でしたので職人を連れてくる時間もありませんでしたが、僕もべーブル作りは習得済みです。リエンス家の本気を甘く見ないでいただきたい。どのみち今の騒ぎで晩餐会は流れますよ」
コーデリア王女は耐えきれずに噴き出した。笑い転げている間に近衛騎士は石畳の上に薪を組んで着火し、ミトンをはめて鉄製の型を温めると、赤子のように厳重に包まれていた陶器の瓶の蓋を開けて、その中に詰められた秘伝の生地を流し込んだ。熱が生地を揺り動かすにつれ、辺りに天上の花も顔負けの甘い香りが満ちていく。寝そべったグリフォンまでもが顔を上げて、ぱくぱくとくちばしを開閉させた。
「お前は後だ。肉食の誇りを思い出せ」
ノックスが言うと、しょげた顔をして不貞寝に戻る。
「サー・ノックス」
「はい」
頃合を見て鉄の型を上下に閉じ合わせ、くるりとひっくり返した。その手際の良さが心地好い。
「騎士にならずに、べーブル屋になれば良かったと思うことは?」
「成功したでしょうね。しかし僕が選べる道ではない。逃げたいのですか」
「たまには」
ノックスが鉄の型を開く。ケーキを乗せるはずだったが、不首尾なパーティのせいで手持ち無沙汰になっていた白い皿の上へ、リエンス家の甘い熊がころころと歩み出た。コーデリア王女は熊たちをフォークで整列させる。
「愛い奴らめ」
ノックスが蜂蜜を垂らしかけると、午後のオレンジ色を増した陽射しが、熊たちを金色に輝かせた。
「コーデリア様、どうぞ。お熱いうちに」
「お前も食べよ」
「毒味は不要です」
「配下と分かち合うのが良い主君だと思わないか」
「コーデリア様」
「うん?」
「何もかも捨てて逃げたくなった時は、僕にも言ってください。べーブルの焼き方くらいは教えて進ぜますから」
「こやつ!」
王女はけらけら笑ってから、べーブルを口の中に放り込んだ。それはとても懐かしくて美しい子供時代の夢のような味がして、だからナリクの民はべーブルが好きなのだろうとコーデリア王女は思ったのである。確かにこの国は古く、少しだけ疲れているのかもしれない。だからこそ誰しもたまには背負った物語を横に置いて、夢見ることも必要なのだ。
(新しい君主、新しい時代。戴冠の日が来るとして、私に果たして背負えるものかな)
いつしか太陽はネメディ平原にキスをし、スウォードヘイル山脈の方角には一番星が輝き始めている。最後の熊をつまんで口に放り込み、コーデリア王女は立ち上がった。
「ごちそうさま、サー・ブラーク」
[完]